とある数学科大学生の備忘録

勉強してきたことをなんとなく話すブログ。厳密性は保証できないです。

複素関数を学ぶうえで

複素関数を学ぶうえで自分が大切にしていることを話させていただきます。とはいっても大げさなことをいうつもりはありませんし、読んで「なんだそんだけか」と拍子抜けしてしまうかもしれませんがご了承ください。

 

結論からいうと、”実数関数との共通点と相違点を意識する””

ということです。

 

複素関数の体系は基本的に「実数のときはこんなふうだったけど複素数はおなじことをいえるかな?

 

で展開していきます。

 

同じだったら、そのままのかたちを採用し、違ったらつじづまがあうように考えなおす、といった感じになるわけですね。

 

例を挙げると、複素数におけるべき関数の微分と実数関数の場合は一致しています。

なので、この場合は定義上同じ形になるわけですね。

 

この性質もあって関数をべき関数に近似する試みがよく出てくるようになります。

 

三角関数の定義は、実数の場合単位円を用いて定義されていますが、このまま複素数に拡張は難しそうです。そのままではうまくいえない例ですね。

 

なので、テイラー展開などででてきたべき関数を三角関数の定義してしまっています。

 

そうすると、微分に関しても先ほどの事実がつかえておいしいわけですね。

 

たいてい複素関数ででてくる定理などは実数で取り上げられたものが多い印象です。なので、定理が出てきたときにには微分積分の教科書を開いて、「あぁ実数とおなじか」てなかんじでやっています。

 

というわけで実数の時と複素数を比べることが大切というわけでした。

 

 

 

 

 

 

たまにはドイツ語でも~助動詞編~

たいていの大学には第2外国語なんてものがあって僕はドイツ語選択しているわけなんですが、数学だけじゃなくて語学をやるのもいい気分転換になるかなと

 

 

助動詞一覧

dürfen

「~してよい」という意味です。許可の助動詞ですね。英語でいうとmayに近いかと

ただ、注意なのは否定をとった場合「~してはいけない」という意味になります。英語でいうとmust not というわけですね。

 

人称変化は、一人称単数と二人称単数と三人称単数の時だけ不規則で一人称と三人称のときは"darf"になり、二人称の場合は"st"がついて、"darfst"になります。

 

können

「~できる」という意味です。可能の助動詞ですね。英語でいうとcanですね、発音も似てますし。注意なのは、実は「~かもしれない」というmayの意味もあります。とりあえずcanの方を知っておきましょう。

 

人称変化は、dürfenの時と同じ場合で不規則になります。一人称単数と三人称単数のときは、"kann"になり、二人称単数の時は"kannst"になります。"ö"が"a"に変わって、"en"が抜けてますね。

 

mögen

「~かもしれない」という意味です。また”かもしれない”がでてきましたね。基本的にこっちのほうが使うことが多いかと。

 

人称変化は、一人称単数、二人称単数、三人称単数のとき不規則で、

一人称単数、三人称単数のときは"mag"で、二人称単数のときは"magst"になります。

 

sollen

「~するべきである」という意味です。英語でいうとshouldにあたります。

 

 人称変化の不規則変化は、一人称単数、三人称単数のときは"soll"で、二人称単数のときは"sollst"になります。不定詞から"en"が抜けてると思えばいいかと。

 

müssen

「~しなくてはならない」という意味です。mustとおなじですね。ところで英語のmustには「~に違いない」という意味がありますが、ドイツ語の方にもその意味があります。

注意なのが、否定をとる際"have to"のときの意味になり、「~しなくてよい」となります。「~してはいけない」のほうは"dürfen"の否定をとればできることは先ほど学びました。

 

人称変化の不規則変化は、一人称単数、三人称単数のときは"muss"、二人称単数のときは"musst"になります。

 

wollen

「~するつもりである」という意味が基本です。英語でいう"will"にあたりますが、"will"の根本には意志というがこめられています。なので、そこから派生してwollenを「~したい」と訳すときもあるそうです。

 

人称変化の不規則変化は、一人称単数、三人称単数のときは"will"、二人称単数のときは"willst"になります。

 

möchte

「~したい」という意味です。"want to"ですね。

この助動詞の特徴は人称変化が規則変化であるということです。なので、意味さえ理解できればマスターしたといえるでしょう。

 

人称変化についての補足

助動詞のほとんどは例外的な変化をする場合がありますが、それは、ich du er sie es の場合のみでその変わり方は"en"が抜け1文字変わる(duの時はそれにstをつける)といった感じで共通点が多いので案外覚えやすいかと。(sollenのときは例外でenを抜くだけです)

 

 

 

 

 

 

 

集合系~名前のくせして写像~(作成中)

今回は集合系について話します。

 

 

 

 

集合系の定義

集合系の定義

まず、次のようにn個の集合があったとします。

 

A₁,A₂,・・・,An

 

それでこんな解釈をします。

 

"1に集合A₁が、2に集合A₂が、・・・nに集合Anが対応している"

 

そうすると、集合{1,2,・・・,n}のAの像が集合族{A₁,・・・,An}となるわけです。

 

Aの右下の文字を適当にλなんて書き直したAλ(ほんとはこのλはA₁の1みたいに小さいです。λを小さくできませんでした。)を集合系といいます。

 

注意点、解釈、その他いろいろ

n個の集合に番号付けをして番号からその集合への写像を考えそれを集合系と呼んでいるわけですね。"集合"系なんて名前ですが、バリバリ写像です。気を付けましょう。

 

あと、λは1からnのどれかですから集合[1,2・・・,n}の元ですね。このλのことを添え字なんて呼び方があるので、集合{1,2・・・,n}を添え字の集合とかいいます。(まんまですね。A君の家とかBちゃんのクラスみたいなものでしょうか?)

 

集合系に関する語句

和集合

集合系が与えられたとき、この集合系の少なくとも1つのAλの元になるようなものの全体からなる集合を集合系の和集合といいます。

共通部分

和集合のときとは、逆にすべてのAλに共通に含まれる元の全体からなる集合を集合系の共通部分といいます。

部分集合系

集合系の各集合Aλがとある集合Xの部分集合であるとき、この集合系を集合Xの部分集合けいといいます。

 

ここから少し難しくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案外受験勉強は楽しい~現代文と格闘する~

 受験からもう数年経ちましたが、なんとなく暇だったので近くの本屋に行って受験参考書を買いにいきました。時間には余裕がある(受験しないわけですし)ので、時間をかけてじっくりやれるような難易度高めの参考書がいいかなって思い次の参考書を購入しました。

 

現代文と格闘する (河合塾シリーズ)

現代文と格闘する (河合塾シリーズ)

  • 作者:竹國 友康
  • 発売日: 2016/06/01
  • メディア: 単行本
 

 

 受験生時代にあまり勉強してこなった科目かつ暗記量が多くなさそうな科目である現代文にしました。

 

 とりあえず、2問くらい解いてみました。(めっちゃ時間かかった・・)ひとつひとつの文章量が多く歯ごたえがありました。

 

問題の解説だけでなく文章の読み方、背景知識も充実していて満足です。

 

 流し読みや飛ばし読みをよくしてしまうので、こうやって定期的にしっかり読むことを忘れないようにしないとなーって感じました。

 

受験生時代は焦りとかであまり感じなかったけど、勉強って楽しいんだな

 

 

 

 

哲学とかはテーマ別で見たほうがいいと思う

教科書とかだと哲学などは”この時代にはこんな人がいてこんなことを言っていた”という感じに紹介されている印象が強い。

 

ただ正直この時代などで分けるやり方はあんまりいいとは思えない。テーマ別に分けて紹介するのがいいのではと思う。特にはじめて哲学に触れようとする人には。

 

1つのテーマにさまざまな時代、国からたくさんの意見が飛んでくる。それを比べながら自分はどの意見に近いのか、近い意見と自分の意見の違いは何だろうなどといろいろ考えやすい。ただ知識を羅列するのではなく、整理しながら能動的に学ぶのとができると思う。

 

なんでもかんでも時系列に沿って勉強するのはおかしい。数学や理科だって時系列のカリキュラムは組まれていない。

 

誤解がないように言っておくが、時系列に学ぶことを全否定しているわけではない。数学や理科だって、数学史や自然科学史の本や授業があるし価値がある。私が言いたいのは、哲学と哲学史とで分けるべきだということだ。哲学のほうは時代を無視してテーマ別に、哲学史は時代別と区別をしたほうがいいのではと思う。

 

最後にこんなことを思ったのはこの本を読んだからである。テーマ別に書かれていて私のような哲学に詳しくない人でも読みやすい。

 

 

 

集合の濃度、そしてそこから

集合論の1つのテーマとして、元の数が無限にある集合同士の大きさの比較がある。これは、前の記事でもやったが、濃度という概念であり、写像全射単射を用いている。

 

全射というのは、もれがないということである。写像先の集合の元すべてに対応関係がある。単射というのは、ダブらないということである。元を変えれば、必ず違う結果となる。

 

全射でもあり単射でもあるとき全単射であるといい、元の集合の元すべてと写像先のすべての元が1対1対応している。この場合、元の集合の元の個数と写像先の集合の元の個数が等しくないといけないことはわかるだろう。元の集合の元の個数が一つでも多くなってしまうと必ず行先がかぶってしまい単射ではなくなる。逆に写像先の集合の元の数のほうが一つでも多かったとしよう。すると、写像の定義から、一つの元から2つ以上の元を指定することはできない。なので、写像先の集合の元が1つ余ってしまう。つまり、全射ではなくなる。

 

これからわかることは、2つの集合に対する写像を考えるとその写像がどんな性質を満たしているかで集合の大きさを比べることができるのである。(全単射なら個数が一緒だとわかるように)

 

実はこれ濃度の大小につながっている。集合Aから集合Bへの全単射が存在するときAとBは濃度が等しいという。これは特に無限集合の大きさを比較するのに用いられる。

 

濃度という単語を学んだので、これを用いる単語を紹介しよう。それは、可算集合である。自然数全体の集合と濃度が等しい集合のことを指している。

 

整数全体の集合や有理数全体の集合は可算集合だが、実数全体の集合はそうではない。連続性の公理からもわかる通り、有理数と実数の間には大きな壁があるようだ。実数全体の集合が可算集合ではないということは、対角線論法という方法で証明されている。

 

濃度という概念に対して、ベルンシュタインによる次の定理がある。

集合A,Bに対し、AからBの単射、BからAへの単射が存在すれば、AとBのの濃度は等しい。この証明はいろいろあるが、今回は省略させていただくが、ざっくり説明させてもらう。Aの元の個数をa,Bの元の個数をbとしよう。AからBの単射が存在するなら、bがa以上でることがわかり、BからAのほうでaがb以上であることがわかる。するとa=bとなる。

 

 

複素数列の極限はどう考えればよいのか

複素関数論は変数が複素数である関数について勉強する分野である。

 

基本的には、ふつう(実数の場合)の微積分と同じように数列の極限から入ることになる。

 

つまり、カリキュラム的に複素数の数列、複素数列について考えるのがはじめの一歩である。

 

では、複素数列における極限とはなんだろう?収束するというのはなんだろうということになる。果たして実数列で考えられたことを複素数列に拡張できるだろうか?

 

複素数列における収束の定義

先に定義を述べてしまおう。複素数列の収束の定義は

 

liman=α  ⇒ lim|an-α|=0

 

である。

 

この定義を解説するために次の命題を追加したい

 

命題 複素数列(αn)nに対し、

 

αn=an+ibn,α=a+biとおくと、

 

lim|αn-α|=o⇒liman=a,limbn=bとなる。

 

この命題のポイントは複素数を実部、虚部にわけていることによって、実数列における収束の知識で私たちはこれに立ち向かうことができる。

 

さて、定義の解説をしたいと思う。

 

大事なところは複素数が2次元の数だというところだろうか。なので、複素数の絶対値が採用されている。図をイメージすると、実数列は長方形のような接近の感じだが、複素数列は円である。

 

実数列でいえた極限の性質は複素数列の極限でもいえる。極限の性質というのは、収束する2つの数列の四則演算の極限は、各数列の極限の四則演算と同じ値になることをさしている。

 

大学では、2変数関数の連続条件の後に、このことを勉強するだろうが、それは複素数列の収束が、2変数の連続のイメージと似ているからだと私は思っている。